クジラのよしなしごと。

ひとつの小さな約束があるといい。

ハチクロとアマデウス

■残した傷跡が消えない それぞれの場所まで

もう行かなくちゃ

久しぶりに「ハチミツとクローバー」を読み返したのだけれど。いやぁ、これはなかなか、面白い。
まず、純然たる少女漫画としての出来が非常に良い。「山田ぁあああああああ」とか「竹本ぉおおおおおお」と叫びながら読むのが、この漫画の大きな醍醐味であることに間違いない。少女漫画の恋愛は「思わず絶叫ながら号泣する(例:ああああああ間山のバカアアアアア!!!等)ような恋愛」と、「ああ……と涙する(うう…意味はあったんだよ……)ような恋愛」に大別されると思うのだが、この作品はとにかくその緩急が激しい。激しすぎるよ。ジェットコースターのそれに近いモノを感じるほどだ。ゆえに、10巻という手軽さでありながら、読み終わった後の疲労感が凄い。そして爽快感もまた凄い。
そう、意味はあるのだ。うまくいく恋愛も、うまくいかなかった恋愛も、意味はある。未だかつて、登場人物の中でもこれだけの人物が失恋する(もちろんハーレム系の漫画は除くとして)漫画があっただろうか。まぁ登場人物全員片思い、がウリなことから考えれば、それも妥当な気がする。そしてまた、その失恋を突きつけられても、読者には非常にさわやかな感覚が残る。これが作者の筆の強さであろう。

さて、はぐちゃんである。このはぐちゃんというキャラクターを描ききっただけでも、この作者の実力はとんでもない。

「天才」というのは非常に描きづらいキャラである。ましてそれが主人公でないとなれば、その難易度はまだぐん、とあがる。「天才」や「カリスマ」というのは、やはりそれでけで読者の興味をぐっと引きつけてしまう要素になる。それ故、周囲との距離感をちゃんと保ったまま書き続けるのは難しい。たいていの場合、天才が自滅するか、周囲がそれを超えていくか、最後まで孤独な天才として輝き続けるかというパターンである。

それでははぐちゃんの場合はどうだったか。驚くべきことに、この作品の中ではぐちゃんの「ライバル」やはぐちゃんに劣等感を感じるキャラクターというのは存在しない。強いていえば、彼女のその才能をなんとかして開花させてあげたいともがき、それが過去に自分が周囲に感じた劣等感ゆえの行動なのではないかと葛藤する花本先生は、その香りがしなくもないが。
とにかく、みんながそれぞれのフィールドで、自分は自分でがんばらなくちゃ、と自立しているのである。そこら辺がいわゆる「美大」という、専攻が違えばまったく感覚が違う世界を用いたところのうまさだろう。そしてそれ故、キャラクターの誰もが、自らの才能というものに向き合い、葛藤するとき、必ず孤独に戦う。
竹本なんかはその良い例で、自分のやりたいこと、自分のできること、自分の才能、それぞれがもやもやしているという状況から脱却するために、突如北の果てへと向かうことを決めたりしている。あくまで孤独に、精神的な交流は周囲と続けながらも、その答えは自分の苦しみの中から見つけ出していくというのが、彼ら・彼女らの「才能との戦い」なのだ。

さて、少し昔の作品になってはしまうが、その昔「アマデウス」という映画があった。名前の通り、「ウォルフガング・アマデウスモーツァルト」の話で、彼のきらびやかな才能と、それをうらやむ男の嫉妬心が招く悲劇、といったふうな話である。
この作品で描かれるモーツァルトは、非常に道化的でありながら、実は孤独な存在なのである。最後は、自らの心が生み出した幻影(といってもこれはサリエリの画策によるものなのだが)に心を潰され、死んでしまう。とてつもない才能が招いた悲劇、といったところだろうが、最終的にモーツァルトという人は、自らの持つ才能に殺されてしまったという風に解釈しても齟齬はないだろう。
つまり、創作の中で過剰に描かれている天才というのは常に孤独であり、最終的には自らもさばききれない、あふれ出る才能の波にのまれて不幸になってしまう、というオチがつきものなのだ。
そこでハチクロである。天才・はぐちゃんは「神の声を聞いた少女」として描かれる。つまり、絵を描かなければ生きている価値がない、いやむしろ、絵が描けなくなったときに、この命を差し出すべき存在なのだと自覚している存在だ。それゆえ、彼女にとって「絵のない人生」という存在は、オーバーな表現でなく、考えられないものなのだ。
ゆえに、気の知れた友人から「絵が描けなくたって、生きてる方がずっと大事だ」と告げられ手をさしのべられても、彼女はその手を取ることなく「私はやっぱり描かなくちゃだめなんだ」と告げてしまう。非常に美しいシーンではあるものの、こう字に起こすと狂気を感じるシーンでもある。
では彼女もまた、最終的に不幸な未来を歩むのだろうか?というところについては、彼女のみならず、すべての人物に共通して描かれていない。しかしただ一つ。この物語(本編の中のはぐちゃんの物語、という意味である)そもそものコンセプトが「天才的な才能を持つが故に孤独になりかねなかった少女が、恋愛をし、友人と思い出を作りながら、人間としての大切な部分を養うことで、あたたかいつながりを得る」という話であることに目をつけると、これが従来の「天才」の描き方とは一線を画していることは一目瞭然だ。すなわち、本来孤独である天才という存在が、少しずつ自然な心を身につけていくという過程を、作品全体を使って丁寧に描ききっているということなのである。ゆえに、それに描かれる「天才」像もまた、従来のモノとは一線を画すもので、私たちは、決してこれまでのことを考えると、諸手で「幸せになれそうでよかったね!」と考えられないのにも関わらず、なんとなくはぐちゃんの未来は明るいのではないか、という風に考えてしまうし、それを期待してしまう。希望を持ってしまうのである。

「わたしは凡庸なる者の王だ。世界中の凡庸なる者たちよ、わたしはおまえたちを許そう。」というのは、アマデウスの台詞だ。モーツァルトに嫉妬したサリエリは、先述の通り、汚い手を使って彼を陥れ、彼に復讐を働き、しかしその後に自らの犯した過ちに気づき、錯乱してしまう。「天才」というのは本当に生モノかつワレモノなので、取り扱いに注意が必要なのである。仮に雑な扱いをしたとしても天才がぴんぴんしているような作品があれば、それはやはり嘘くさく、最終的に「あれ?こいつって天才って設定だったよな?(笑)」となってしまう(スポーツマンガによくあるミスである)のである。しかしそこを丁寧に描ききったからこそ、ハチクロには、主軸の美しく切ない恋愛話と同時並行で、妙な緊張感のある、「芸術家」の話が非常に巧く語られているのである。ネタバレにならないように描くけど、〇〇〇〇よ、はぐちゃんの取り扱いにはくれぐれもご注意くださいませ…………。