クジラのよしなしごと。

ひとつの小さな約束があるといい。

傷つくことだけ上手になって

 

傷つき慣れる。

 

ということが、果たして人間にできるだろうか。「傷つくことには慣れた」とか、「傷つき慣れた僕(私)〜」といったワードを、ここ最近、漫画のセリフから歌の歌詞までよく目にするようになった(そしてだいたい「うまく笑えない」とか「作り笑いがうまくなった」という文句がそこについたりする)。

 

しかし、基本的に「痛がり」の私には、この現象が理解できない。私はかなりの痛がりで、ちょっとつつかれただけで結構へこみ、つつきどころが悪いと、そっから数年くらいずっと引きずる人間だ。なんとも情けないものだと自分でも思うが、20余年それを続けてきた身としては、これから強くなろうともさほど思わない。

 

今日のタイトル「傷つくことだけ上手になって」は、劇作家・つかこうへいの名作「蒲田行進曲」からの引用である。銀幕の大スター・銀ちゃんと、銀ちゃんに憧れている、冴えない大部屋俳優(今で言うスタントマン)・ヤス。そして、昔の銀ちゃんの女で、ヤスに無理やり押し付けられる女優・小夏。「蒲田行進曲」は、この3人を中心にした物語である。

この文は、小夏がヤスに向けて贈ったセリフに用いられている。

 

「傷つくことだけ上手になって」

 

ヤスは毎日、スターたちの代わりに、頭からガソリンを被って火をつけられたり、高層ビルから飛び降りることで、自らの体をボロボロにしながら、少ない給料を得ている。その上、銀ちゃんからはサディスティックにあしらわれ、心をすり減らしながら、しかしそれでも笑っている。そういう男だ。

 

このセリフは、ヤスの生きざまを一言で言い当てた名台詞である。「傷つくことだけ上手になって」いく男。それはなんとも愚かしく、愛らしく、なによりも哀しい。そしてまた、何度ひどいことをされてもヘラヘラとしているヤスは、はっきりいってしまえば狂っているとも言える。(と言っても、後半になると徐々にヤスは自らの「傷つく」瞬間に向き合うようになって、人間らしく怒るようになるし、きちんと傷つくようになる。そして、それを押し殺してあの「池田屋階段落ち」に臨んでいく姿が、なんとも泣けるのであるが。)

 

 

傷つく、という現象は、人間が人間らしく生きていることの証明でもある。社会というのは、それを構成する人間がきちんと「傷つける」環境にあって、初めて成立するのだ。だから、「傷つくことに慣れていく人々」を哀れんだり、「忍んで我慢する美学」を礼賛するよりは、「人が自由に傷つくことを認める」ことの方が、現代には必要なのではないか。

 

人はもっと傷ついていい。投げ出して、忘れ、自分勝手に喋り、叫び、その傷を大切に抱え、楽しい記憶でそれを埋めていけばいいのだ。

「傷つくことだけ上手にな」る前に。

 

最近、ちゃんと傷ついてますか?