クジラのよしなしごと。

ひとつの小さな約束があるといい。

《ネタバレ有》「君の名は。」感想

■君の前前前世から僕は

 

見てきました( ˘ω˘ )

 

 

ぜっってーー見たほうがいいすねこれ。

 

とても良い作品だなぁ〜と思うわけです。SF作品にありがちな、ご都合展開や矛盾も散見されるけれど、それを超えていく勢いというか、それを感じさせない熱量がこの作品にはあったと思わるる。

 

いろんなことを言う人がいると思うのだけれど、この作品のテーマは「風化」だと思うわけです。途中、糸守町の大災害のことに瀧は気づいてもおかしくなかったと思うんですが、そこら辺に(夢の中のことはすぐ忘れてしまう、という設定はあるにせよ)気づかない、すなわち、山奥で何百人が死んだという記憶を、社会が無意識のうちに置いているというこの構造が、震災後の日本の現状と非常に良くリンクしてると思うわけです。だから、ちょっと出で「10.04を忘れない」だの「あの日、糸守はなくなった」だの、そういう言葉が、スクリーン上で非常に陳腐にみえるわけです。

 

ちょっと複雑になるわけですが。「忘れたくないものを忘れてしまう」という、人間として非常に恐ろしい事象ーここではそれが「君の名」なわけですがーが、この作品にはよく描かれているわけです。これは、忘却でなく、無意識のうちで寂れていく記憶を、もう1度意識に持ってくることが出来たならば、という仮定の上に成り立っているわけで、それを起こすファクターがいわゆる「結び」となるわけなんですな。しかし、これは《嘘》なわけであって、その虚構っぽさが、もう一歩というところだった気がします。それでは、陳腐な言葉を吐いている人々とそこまで視点が違うともいいきれない。

 

私たちが無意識のうちに追いやっている「過去」は、どのようにして思い出すべきなのか……これに関する明確な答えはないと思うのですが、ただひとつ、自分たちがそこで体験したこと、感じたことを何らかの形で残しておく、ないし精算しておく事は、そこにつながって行く気がするわけです。そういう意味では、この映画は、新海誠という人が、あの震災から感じたこと、喪失から得た視点のようなものを一気に精算しにきたのかな、と思います。

 

そのうえで、もっとも「らしくない」のは、「喪失をひっくり返す」という形を映画の中でとった、すなわち、街の人々をもれなく救ったという事実があったということ。これがなかなかのアンリアルではないかと思うわけです。別にじゃあ計画失敗しろっていっているわけではなくて、その観点に答えを出す事は、少なくても一個人においては容易ではないということ。そこらへんの機微があってもいいかな、と思わなくもなかったわけですな。

 

しかし、絵も、神木くんも悠木碧も、熱量のあるストーリーも、RADWIMPSも非常に良かったです。もう1度みにいきたいな(☝ ˘ω˘)

 

 

 

 

ハチクロとアマデウス

■残した傷跡が消えない それぞれの場所まで

もう行かなくちゃ

久しぶりに「ハチミツとクローバー」を読み返したのだけれど。いやぁ、これはなかなか、面白い。
まず、純然たる少女漫画としての出来が非常に良い。「山田ぁあああああああ」とか「竹本ぉおおおおおお」と叫びながら読むのが、この漫画の大きな醍醐味であることに間違いない。少女漫画の恋愛は「思わず絶叫ながら号泣する(例:ああああああ間山のバカアアアアア!!!等)ような恋愛」と、「ああ……と涙する(うう…意味はあったんだよ……)ような恋愛」に大別されると思うのだが、この作品はとにかくその緩急が激しい。激しすぎるよ。ジェットコースターのそれに近いモノを感じるほどだ。ゆえに、10巻という手軽さでありながら、読み終わった後の疲労感が凄い。そして爽快感もまた凄い。
そう、意味はあるのだ。うまくいく恋愛も、うまくいかなかった恋愛も、意味はある。未だかつて、登場人物の中でもこれだけの人物が失恋する(もちろんハーレム系の漫画は除くとして)漫画があっただろうか。まぁ登場人物全員片思い、がウリなことから考えれば、それも妥当な気がする。そしてまた、その失恋を突きつけられても、読者には非常にさわやかな感覚が残る。これが作者の筆の強さであろう。

さて、はぐちゃんである。このはぐちゃんというキャラクターを描ききっただけでも、この作者の実力はとんでもない。

「天才」というのは非常に描きづらいキャラである。ましてそれが主人公でないとなれば、その難易度はまだぐん、とあがる。「天才」や「カリスマ」というのは、やはりそれでけで読者の興味をぐっと引きつけてしまう要素になる。それ故、周囲との距離感をちゃんと保ったまま書き続けるのは難しい。たいていの場合、天才が自滅するか、周囲がそれを超えていくか、最後まで孤独な天才として輝き続けるかというパターンである。

それでははぐちゃんの場合はどうだったか。驚くべきことに、この作品の中ではぐちゃんの「ライバル」やはぐちゃんに劣等感を感じるキャラクターというのは存在しない。強いていえば、彼女のその才能をなんとかして開花させてあげたいともがき、それが過去に自分が周囲に感じた劣等感ゆえの行動なのではないかと葛藤する花本先生は、その香りがしなくもないが。
とにかく、みんながそれぞれのフィールドで、自分は自分でがんばらなくちゃ、と自立しているのである。そこら辺がいわゆる「美大」という、専攻が違えばまったく感覚が違う世界を用いたところのうまさだろう。そしてそれ故、キャラクターの誰もが、自らの才能というものに向き合い、葛藤するとき、必ず孤独に戦う。
竹本なんかはその良い例で、自分のやりたいこと、自分のできること、自分の才能、それぞれがもやもやしているという状況から脱却するために、突如北の果てへと向かうことを決めたりしている。あくまで孤独に、精神的な交流は周囲と続けながらも、その答えは自分の苦しみの中から見つけ出していくというのが、彼ら・彼女らの「才能との戦い」なのだ。

さて、少し昔の作品になってはしまうが、その昔「アマデウス」という映画があった。名前の通り、「ウォルフガング・アマデウスモーツァルト」の話で、彼のきらびやかな才能と、それをうらやむ男の嫉妬心が招く悲劇、といったふうな話である。
この作品で描かれるモーツァルトは、非常に道化的でありながら、実は孤独な存在なのである。最後は、自らの心が生み出した幻影(といってもこれはサリエリの画策によるものなのだが)に心を潰され、死んでしまう。とてつもない才能が招いた悲劇、といったところだろうが、最終的にモーツァルトという人は、自らの持つ才能に殺されてしまったという風に解釈しても齟齬はないだろう。
つまり、創作の中で過剰に描かれている天才というのは常に孤独であり、最終的には自らもさばききれない、あふれ出る才能の波にのまれて不幸になってしまう、というオチがつきものなのだ。
そこでハチクロである。天才・はぐちゃんは「神の声を聞いた少女」として描かれる。つまり、絵を描かなければ生きている価値がない、いやむしろ、絵が描けなくなったときに、この命を差し出すべき存在なのだと自覚している存在だ。それゆえ、彼女にとって「絵のない人生」という存在は、オーバーな表現でなく、考えられないものなのだ。
ゆえに、気の知れた友人から「絵が描けなくたって、生きてる方がずっと大事だ」と告げられ手をさしのべられても、彼女はその手を取ることなく「私はやっぱり描かなくちゃだめなんだ」と告げてしまう。非常に美しいシーンではあるものの、こう字に起こすと狂気を感じるシーンでもある。
では彼女もまた、最終的に不幸な未来を歩むのだろうか?というところについては、彼女のみならず、すべての人物に共通して描かれていない。しかしただ一つ。この物語(本編の中のはぐちゃんの物語、という意味である)そもそものコンセプトが「天才的な才能を持つが故に孤独になりかねなかった少女が、恋愛をし、友人と思い出を作りながら、人間としての大切な部分を養うことで、あたたかいつながりを得る」という話であることに目をつけると、これが従来の「天才」の描き方とは一線を画していることは一目瞭然だ。すなわち、本来孤独である天才という存在が、少しずつ自然な心を身につけていくという過程を、作品全体を使って丁寧に描ききっているということなのである。ゆえに、それに描かれる「天才」像もまた、従来のモノとは一線を画すもので、私たちは、決してこれまでのことを考えると、諸手で「幸せになれそうでよかったね!」と考えられないのにも関わらず、なんとなくはぐちゃんの未来は明るいのではないか、という風に考えてしまうし、それを期待してしまう。希望を持ってしまうのである。

「わたしは凡庸なる者の王だ。世界中の凡庸なる者たちよ、わたしはおまえたちを許そう。」というのは、アマデウスの台詞だ。モーツァルトに嫉妬したサリエリは、先述の通り、汚い手を使って彼を陥れ、彼に復讐を働き、しかしその後に自らの犯した過ちに気づき、錯乱してしまう。「天才」というのは本当に生モノかつワレモノなので、取り扱いに注意が必要なのである。仮に雑な扱いをしたとしても天才がぴんぴんしているような作品があれば、それはやはり嘘くさく、最終的に「あれ?こいつって天才って設定だったよな?(笑)」となってしまう(スポーツマンガによくあるミスである)のである。しかしそこを丁寧に描ききったからこそ、ハチクロには、主軸の美しく切ない恋愛話と同時並行で、妙な緊張感のある、「芸術家」の話が非常に巧く語られているのである。ネタバレにならないように描くけど、〇〇〇〇よ、はぐちゃんの取り扱いにはくれぐれもご注意くださいませ…………。

顔がこわいひと

 ■迫力

 

テレビを見ながら、あぁ、このままだと、まるで当然のことのように、小池百合子が都知事になるんだろうなぁ、と思いを馳せる。

 

別に「日本会議が〜」とか「ネトウヨは感性の劣化だ〜」とか、そういう話をしたいわけではない。まぁ東京都知事だから。千葉県知事じゃないし。

ちょっと横道にそれれば、そう、東京都知事なのだ。別に北海道知事でも大阪都知事でもアメリカ大統領でもないわけで、他県民からしてみれば「別に誰がなってもかわらないし」って感じなのだ。というかむしろ、地方分権とはそういうものなのであって、小池百合子だろうが鳥越俊太郎だろうがマック赤坂だろうが、誰がなっても他県民には影響がない。それが地方自治のあるべき姿なのだろう。極論を言ってしまえば「東京都民以外関係ない」都知事のニュースで、「日本国民全体に関わる」参院選の議論が十分になされなかったのは、なんとも面白い話である。

 

さて、小池百合子の顔の怖さである。

石原慎太郎が「厚化粧のおばさん」と彼女を揶揄したが、化粧の厚さでいえばまだ片山さつきの方が何割か勝っているので、小池はやや出遅れている。というか、蓮舫にしても三原じゅん子にしても、タレント上がりは薄化粧でもそこそこ整った、品のある顔立ちに見えるのであって、はっきりいえば彼女達はそこに勝ち目はないのである。というかそもそも、別に顔で政治をするわけじゃないので、そういった印象にこだわり、無理して厚化粧してタレント上がり組に対抗する必要は全くないのである。いいじゃん、すっぴんのおばさん。好感もてるとおもうけどな。

 

しかしまぁ、化粧はともかく、小池百合子の顔は怖い。なんだろう。目元と口元が、バタ臭い戦後のメリケン人形に見えるというか、人工的なものに見えてしまうのだ。「CHICAGO」で、リチャード・ギアのパペットになって演説するシーンのレネー・ゼルウィガーのそれに見える。ええと、ええとね。

 

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そうそう、これこれ!!

 

なんだろう。なんだろう。目が笑ってないというか、冗談通じなさそうな感じが、なんか、なんか、怖いのだ。いや、別に仕事してくれればどんな顔の人がなってももちろん構わないんだけど……

 

美しくないと言っている訳では無いのだ。端正で凛としたお顔立ちだと思うのだけど、でもいかんせん怖い。もしかして小池百合子もまた、誰かに背中の中から手を突っ込まれて操られているのでは…と思ってしまうほど(深い意味は無い)だ。

 

というわけで、

どうなるんでしょうね都知事選。

もし小池百合子が就任したら、少なくとも、私が知る限りでの都知事の中でダントツ1番の顔の迫力である。ひえー。

 

たらこスパゲッティって

おいしいよね。

地味においしい、たらこスパゲッティ。


この記事を書く直前、ファミリーマートのたらこスパゲッティなるものを食したのだが、これが意外に美味だった。レトルトのたらこスパゲッティは、たまにたらこが辛すぎたり、異様にマヨネーズの混ぜてあるものがあったりして、あまり信用ならないのであるが、チルド(?)のたらこスパゲッティは、これから昼食のバリエーションとしてアリだな、と実感した。


たらこスパゲッティ。
和洋折衷料理なるものは世にそこそこあるが、もし「日本三大和洋折衷料理」なるものがあるとすれば、「あんパン」「カリフォルニアロール」と並んできっとランクインするだろう。しかしそう考えると、「あんパン」だけが異様に強いな。あんパンのあの、あんこの甘みとパンの塩気のバランスの良さは、果たしてあんこのスペックの高さによるものか、それともパンか。まぁ、どら焼きとかの存在が、「小麦もふもふ」と「あんこぎっしり」の相性の良さを物語ってると思われる。
それにくらべて「カリフォルニアロール」の崖っぷち感もすごい。まぁ地味に世界中で広がっていった「スシ」文化が、アメリカ西海岸の風に当てられてよくわからないものに進化し、それを半笑いで日本人が食べたら、(認めたくはないものの)案外うまかった、と。その過程もほかのふたつに比べて不安定であるし、まぁそれはしょうがない。おいしいけどね。

しかし、カリフォルニアロールがどれだけ頑張っても「全スシネタの王様」になれないように、きっとたらこスパゲッティも「全パスタの王様」にはなれないだろう。やっぱり日本において「自分の国籍が決まっている」ということは、覇権をとる上で必須なのかもしれない。それがナショナリズムといったものなのだろうか。しかしそう考えると、あんパンだけはうまく世の中に溶け込んで、自分の「ハーフタレント」なるアイデンティティをうまく世間に溶け込ませたと思う。蓮舫みたいなものだよね、感覚としては。

しかし私は、今日この日から、全スパゲッティのなかでも「和風スパゲッティ組」を応援したいと思ったのだ。たらこスパゲッティはやっぱりおいしいって。カルボナーラほどしつこくないし、ミートソースほど飽きない。いいじゃないですか、ハーフタレントのたらこくん。もっと盛り上げていきましょうよ日本。きっとこういう草の根運動が、彼を「あんパン」に次ぐ日本で2人目の「ハーフタレント覇者」に押し上げることに繋がるだろう。

がんばれ!!たらこ!!!


……まぁ、ペペロンチーノのほうが好きだったりするけど。

明日へ続く道

明日へ続く道

      星野 富弘

鈴蘭の花
涙のように咲いていた
翼のある鳥になりたかった
あの日のことが
なかったみたいに 日々は巡り
私には眩しすぎる陽が昇る

夜の底から静かに聞こえた
夜明けの歌声
折れた枝の桜は咲いて
鈴蘭の花
真珠のようにゆれている
さあ足を上げよう
翼はないけれど
自由なこころと夢がある
今私が立っているここから
明日へ続く道が始まる


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相模原の殺人事件のニュースを観て。
とっさに浮かんだ一文でした。

傷つくことだけ上手になって

 

傷つき慣れる。

 

ということが、果たして人間にできるだろうか。「傷つくことには慣れた」とか、「傷つき慣れた僕(私)〜」といったワードを、ここ最近、漫画のセリフから歌の歌詞までよく目にするようになった(そしてだいたい「うまく笑えない」とか「作り笑いがうまくなった」という文句がそこについたりする)。

 

しかし、基本的に「痛がり」の私には、この現象が理解できない。私はかなりの痛がりで、ちょっとつつかれただけで結構へこみ、つつきどころが悪いと、そっから数年くらいずっと引きずる人間だ。なんとも情けないものだと自分でも思うが、20余年それを続けてきた身としては、これから強くなろうともさほど思わない。

 

今日のタイトル「傷つくことだけ上手になって」は、劇作家・つかこうへいの名作「蒲田行進曲」からの引用である。銀幕の大スター・銀ちゃんと、銀ちゃんに憧れている、冴えない大部屋俳優(今で言うスタントマン)・ヤス。そして、昔の銀ちゃんの女で、ヤスに無理やり押し付けられる女優・小夏。「蒲田行進曲」は、この3人を中心にした物語である。

この文は、小夏がヤスに向けて贈ったセリフに用いられている。

 

「傷つくことだけ上手になって」

 

ヤスは毎日、スターたちの代わりに、頭からガソリンを被って火をつけられたり、高層ビルから飛び降りることで、自らの体をボロボロにしながら、少ない給料を得ている。その上、銀ちゃんからはサディスティックにあしらわれ、心をすり減らしながら、しかしそれでも笑っている。そういう男だ。

 

このセリフは、ヤスの生きざまを一言で言い当てた名台詞である。「傷つくことだけ上手になって」いく男。それはなんとも愚かしく、愛らしく、なによりも哀しい。そしてまた、何度ひどいことをされてもヘラヘラとしているヤスは、はっきりいってしまえば狂っているとも言える。(と言っても、後半になると徐々にヤスは自らの「傷つく」瞬間に向き合うようになって、人間らしく怒るようになるし、きちんと傷つくようになる。そして、それを押し殺してあの「池田屋階段落ち」に臨んでいく姿が、なんとも泣けるのであるが。)

 

 

傷つく、という現象は、人間が人間らしく生きていることの証明でもある。社会というのは、それを構成する人間がきちんと「傷つける」環境にあって、初めて成立するのだ。だから、「傷つくことに慣れていく人々」を哀れんだり、「忍んで我慢する美学」を礼賛するよりは、「人が自由に傷つくことを認める」ことの方が、現代には必要なのではないか。

 

人はもっと傷ついていい。投げ出して、忘れ、自分勝手に喋り、叫び、その傷を大切に抱え、楽しい記憶でそれを埋めていけばいいのだ。

「傷つくことだけ上手にな」る前に。

 

最近、ちゃんと傷ついてますか?

 

 

 

 

フジとさんまとオザケンと。(1)

爆死

先日放送されたフジテレビの「27時間テレビ」が、視聴率過去最低という爆死を成し遂げたという。

news.yahoo.co.jp



合掌。



私も旅先や自宅で、断片的にちらちらと観ていた。
「顔だけ有名人そっくりさんで100万円!」や、「キスマイ(?)の、かっこいいキス選手権」と、まるで後期「いいとも!」の、存在意義のよくわからないコーナーをだらだらと見せられている気分で、なんだかいたたまれない気分になった。しかしながら、私は例年に比べてそこまで落ち度があったようには思わなかったのだ。

島田紳助がまだ「ご存命」だった頃、「クイズ!ヘキサゴン!」という、中途半端に芸能界に足を突っ込んでいるタレントたちを体よくサバくためだけのバラエティ番組がやっていた。小中学生でもわかるような問題を、おバカに間違えることで笑いをとるタレントたちと、それを小手先であしらう島田紳助の絶妙な不協和音が、なんとも気味悪かったことを覚えている。(この図式だけだったら、さんまの番組で昔やっていた「ご長寿早押しクイズ」における、ボケ老人と鈴木史朗のほうがいいカンケイである)

話が横道にそれた。ともかく、その「クイズ!ヘキサゴン!」という番組が存在したのだ。そしてなぜか、それが世の小中学生(?)の心をつかみ、結構な人気を獲得したことがあり、27時間テレビのメインパーソナリティ(というのか)に、島田紳助とその仲間たち(俗に言う「ヘキサゴンファミリー」)が就任したことがあった。

ここまで十分にヘイトっぷりをしていることでおわかりだろうが、私にとってはその年の「寒さ」といったら、今年の比じゃなかった。

うっすらとした記憶でしか当時の様子を語れないことを謝罪したいが、とにかく寒かったのだ。たとえば、各地方のフジサンケイ系列のTV局と対抗して、27時間の耐久三輪車レースを行ったコーナー。(今となってはバカキャラをすっかり封印した)つるの剛士やら、マーくんの奥さんこと里田まいやらが、泣きながら三輪車をこぎ、その傍らで絶叫しながら応援する。そしてフィナーレでは伸助とともに抱き合って号泣。
そんなに辛いならやらなきゃいいのでは、という突っ込みを、当時彼女に無理矢理観させられた私は、心の中にずっと思っていた。「本家」24時間テレビも、あのマラソンの存在意義はかなり薄いが、一応「マラソンの様子を視聴者に気にさせ、募金をつのる」という目的がある。しかし、27時間の壮大なバラエティを打ち出す、という、非常に自己本位な番組で、さらに泣きながら三輪車をこぐタレントたちの様子を垂れ流すという図式は、寒いとか愚かを通り越して、失笑ものである。

そもそも、27時間テレビ自体が、かなり目的意識の薄い番組である。27時間を使って、フジはいったい何がしたいのか。そこが明確にならない以上、27時間の帯を全部使って、やれ「耐久レース」だの、やれ「ギネス記録に挑戦」だのをやっても全く意味がないのだ。

だったら、ということで今年の27時間テレビはかなり開き直っていた。27時間をかけて継続的に挑戦する!といったような企画はほぼほぼ存在せず、ただフジの人気番組を、やんわりとつないで垂れ流すことで、自己本位な「お祭り」を開いたのだ。これはなかなか画期的で、要するに、ただ27時間放送する番組に共通テーマを設けて、それ以外はなんとなく特番でつなげるという図式にシフトチェンジし、「27時間」のつながりを完璧にぶちこわしたのだ。

中でも「さんまのお笑い向上委員会」はかなり振り切っていた。ゲストに東国原英夫を迎えたことと、生放送である、ということ以外、ほぼほぼ普段の特番と変わらない図式。

さて、この「さんまのお笑い向上委員会」という番組は、普段はもちろん収録で放送されている番組なのだが、その収録は、ゲストを呼ぶまでに何十分、時に数時間という時間を、さんまとひな壇芸人たちのフリートークで潰してしまうという、なんともコスパの悪い番組である。トークの内容は、爆笑問題の太田やネプチューンのホリケン、ずん飯尾など、実力のある芸人ぞろいだけあって流石に面白いように見える。しかし、収録に何時間もかけて、その中から面白い上澄みのトークを放送しているのだとすれば、そのクオリティもうなずける。

この番組を見ていて思うのは、さんまの司会者としての特殊性、特異性である。さんまのMCとしての鉄板の流れは、くりぃむ上田やSMAP中居とは大きく異なる。トークネタを芸人ないしタレントにふり、その発言に「あ〜、〇〇なんですね(なんや)」というふうに、オウム返しに話に乗っていく。ここまでは同じだ。しかし、そのネタを話し終わった時、さんまは「爆笑」するか、「何の話やねん!」と、そのトークを遮り、さらに自分で勝手にオチをつけてしまう。

ちょっと文面ではわかりづらいかもしれないが、ようは、普通のMCが、あくまで「聞き手」で「まとめ役」にまわり、美味しいところはかならず話の主に任せるのに対し、さんまは「あ、面白くないな」と勝手に思ったトークは、話の主導権を奪い、自らの手柄にしてしまうのだ。
「お笑い向上委員会」を見ていると、何時間にも渡る収録の上澄みであるにも関わらず、さんまがひな壇芸人たち手柄を奪う場面が数多く存在する。普通の考えならば、トークが失敗した部分こそカットするべきなのだが、さんまの感覚では、「そこすらも面白く持っていったで!どや!」と、それを視聴者に見てもらうことこそが、この番組の存在意義なのだ。

誤解しないでいただきたいことは、これは、決してさんまに対する批判なのではない。さんまが、それでも番組を成立させてしまう「スター」なのだ、と、そういう視点からの意見である。現に、これをこなせてしまうような、カリスマ性のある芸能人は、今現在さんま以外存在しない。

しかし、そんなさんまのスターっぷりを盛り込んだのにもかかわらず、27時間テレビは「爆死」してしまった。もちろん、それは27時間テレビの他のコンテンツが、さんまの足を引っ張った、と考えることもできるのだが、私があの生放送で感じた「さんま、古いな」という感覚のゆえんも、もしかしたら27時間テレビ「爆死」の遠因なのかもしれない。そう思う。

そのくだりは、また後日に。